先日開催された御柱祭の少し前に、諏訪大社の二社四宮を参拝致しました。
温泉好きな私には、下社秋宮周辺の温泉施設が気になるところではありますが、秋宮の参拝した内容をご案内致します。
諏訪大社の創建は古く、歴史は、古事記の国譲り神話まで遡ると言われています。
御祭神は、古事記のなかで、大国主命の御子神として登場する、母は沼河比売(奴奈川姫)とされる、「建御名方神 (たけみなかたのかみ)」と、建御名方神の妃である「八坂刀売神 (やさかとめのかみ)」である。
青銅製の狛犬として、日本最大と言われています。
平安時代末期には平頼盛領となっており、鎌倉時代になると平家没官領として源頼朝に給付された。頼朝は神馬を奉納し、信濃御家人に諏訪大社への神役勤仕(しんやくごんじ)を徹底させ、大祝に従うべきことを命じている。この頃には「諏訪社」の表記が見られ、また「上宮」・「上社」の記載もあり、上社・下社に分けられていた。
なお、治承4年(1180年)が上下社の区別が明示されている初見である。他の神社同様、当社も神仏習合により上社・下社に神宮寺が設けられて別当寺(神社を管理する寺)となり、上社は普賢菩薩・下社は千手観音が本地仏とされた。建暦2年(1212年)、幕府は諸国の守護・地頭に鷹狩禁止令を出したが、諏訪大明神の「神御贄鷹」については例外的に許可した。
毎年恒例の五月会や上社南方の御射山で行われた御射山祭には鎌倉を始め甲斐・信濃など周辺の武士が参加したそうだ。それに加えて、軍神としての武士からの崇敬や諏訪氏の鎌倉・京都への出仕により、今日に見る諏訪信仰の全国への広まりが形成されたそうだ。
また、諏訪両社においても大祝を中心として武士団化が進み、両社間で争いも多かったそうだ。
戦国時代に甲斐国の武田氏と諏訪氏は同盟関係にあったが、天文11年(1542年)には手切れとなり、武田晴信(信玄)による諏訪侵攻が行われ、諏訪郡は武田領国化される。信玄によって永禄8年(1565年)から翌年にかけて上社・下社の祭祀の再興が図られた。
信玄からの崇敬は強く、戦時には「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗印を先頭に諏訪法性兜をかぶって出陣したと伝えられる。
明治4年(1871年)に近代社格制度において国幣中社に列し「諏訪神社」を正式名称とした。その後、明治29年(1896年)に官幣中社、大正5年(1916年)に官幣大社と昇格した。
戦後は神社本庁の別表神社の一社となり、昭和23年(1948年)から他の諏訪神社と区別する必要等により「諏訪大社」の号が用いられている。
また、下社では、御霊代(依り代)が2月と8月に両社間を遷座する。南側が開けており古くから農耕が盛んな地であり、農耕民族的な性格を有している一帯は下諏訪の中心地で、近世には中山道・甲州街道の宿場町として下諏訪宿も設けられ、現代においても温泉地としての宿場町として栄える。