ここ最近、「3本の矢」と耳にするとアベノミクスを連想してしまいますが、歴史のエピソードとしては、「3本の矢」といえば、「毛利元就」。

元就(1497~1571)は戦国時代最高の武将の一人と言われ、用意周到な計略で自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。このような戦略を我が子に託したいが、一人の世継ぎでは、そのような苦悩の中、ある日、元就は三人の息子達(隆元・元春・隆景)を呼び寄せ、一本の矢をへし折るよう命じた。
息子たちが難なくこれを折ると、次は三本の矢束を折るよう命じたが、息子たちは誰も折ることができなかったという。 
元就は一本では脆い矢も三本の束になれば頑丈になるということを示し、三兄弟の結束を強く訴えかけた・・、これが有名な「三本の矢」のエピソードである。 

IMG_7515-s

さて、更に遡りまして、

この「毛利」の姓を初めて名乗ったのが毛利季光(すえみつ)でした。

 季光の父親は、公家の大江広元(おおえのひろもと)。建久3年(1192年)、源頼朝が鎌倉幕府を開府し、武士が初めて政治を行うにあたり、朝廷の内情に精通し、法律などの知識が豊富な広元を京都から呼び寄せました。

 広元は政治の中枢を担う政所(まんどころ)の初代別当を務めるなど幕府に大きく貢献し、資源豊かな要地である「相模国毛利庄」(現在の厚木市)を領地として与えられます。広元の四男に生まれた季光は、毛利庄に居住。父親の姓であった「大江」を、「毛利」に改めたのです。

IMG_7516-s-19343

 宝治元年(1247年)、鎌倉幕府は、北条氏の台頭で、揺れに揺れていました。源頼朝の時代から仕える御家人と北条氏との対立が表面化し、ついに横須賀市周辺を治めていた三浦氏が挙兵したのです(三浦氏の乱)。その渦中、人生の岐路に立たされた一人の武将がいました。厚木の地にある毛利庄(もうりのしょう)の領主・毛利季光、その人でした。

 鎌倉幕府の評定衆(ひょうじょうしゅう)を務める毛利季光は、執権・北条泰時の孫・時頼に娘を嫁がせ、北条氏と姻戚関係を結んでいました。しかし、季光の妻の実家が三浦氏だったことから「実家の三浦氏を捨て勢いのある北条氏に味方するのは武士の義に背く」と妻に引き止められ、三浦氏の味方をすることになったのです。

 鎌倉幕府を二分した激しい戦いの末に三浦氏は敗れ、鎌倉の法華堂で季光も一族郎党約500人と共に自害して果てます。娘婿、妻の実家の板挟みになり、思い悩んだ末、武士の義に生きた毛利季光。この人こそ、「毛利元就」の祖先なのです。

IMG_7520-s-0f133

 三浦氏の乱に巻き込まれなかったのが、越後佐橋庄(えちごさはしのしょう)-新潟県柏崎市-と安芸吉田庄(あきよしだのしょう)-広島県吉田町-の地頭として関東を離れていた季光の四男・経光(つねみつ)でした。幕府も毛利氏を信頼し、佐橋庄と吉田庄は取り上げられず、毛利家の血筋は絶えることがなかったのです。
 建武3年(1336年)当時、経済の中心が瀬戸内海であったことなど、西の方が有利と判断し、経光の四男・時親(ときちか)が吉田庄に移り住みます。

 そして、約230年後に毛利元就が、守護大名の大内氏や尼子氏を倒し、小さな国の領主から、中国地方全域を領地とする戦国大名へのし上がっていきました。

IMG_7519-s-08091

現在では、厚木市下古沢に位置する三島神社に季光が居住した屋敷の跡として石碑が残る。

また、この周辺では、「毛利台」や「南毛利」といった地名があり、毛利元就が戦国時代に天皇家に寄進をした際、実家の厚木の毛利家にも、五三の桐の紋章がお礼として送られたとされ、南毛利小学校、南毛利中学校の校章になっているそうだ。