先日のブログで伊勢神宮に行きたいなぁといったお話をさせて頂きました。

IMG_8787-s

20年に一度の日本で最大最高の祭典、「式年遷宮(しきねんせんぐう)」。これは、日本人ならばこの年に行かなければなりません。そんな想いで、車ですっ飛ばして、先日、弾丸ツアーで行ってきちゃいました。

数回に亘って、お伊勢詣でをご案内したいと思いますので、よろしくお願いいたします。

夜中に厚木を出発し、早朝、伊勢に到着致しまして、まずは、伊勢神宮の外宮(げくう)へ。

AM6時30分頃ですが、既にもの凄い参拝客がいらっしゃいまして、無料駐車場はギリギリ停める事が出来ました。

IMG_8824-s

寝起きの子ども達は、かなり不機嫌ですが、テンションが上がりまくりの私は、参拝を促す。

まずは、「表参道火除橋」を越えて行きます。参道入り口の堀川にかかる火除橋と呼ばれる小さな橋で、ここから聖域に入ることとなります。

IMG_8789-s-92b61

なお、外宮は手水舎が左側にある関係なのか、左側通行となっています。

手水舎の反対側には、「清盛楠(きよもりくす)」が。清盛と言えば、昨年でしたか、NHKの大河ドラマになりました「平清盛(たいらのきよもり)」であります。

ご存知、平清盛は、伊勢の地に「清盛堤(治水事業)」の伝承を残したりしており、「平家に非ずんば人に非ず」と悪的なイメージもあるが、善なるエピソードを伝える存在でもあります。

IMG_8823-s-6bfd7

「清盛楠」は、神宮に勅使として参向したとき、冠(かんむり)にさわった西側の枝を切らせたという伝説を元に名づけられたようだ。平清盛は、伊勢神宮に三度参向しているが、枝を切らせたのは、一度参向した清盛の子「重盛」である!という説もあるそうです。伊勢には、平家の落人伝説も残っているから、真実かどうかは別として歴史は大きなロマンですね。樹齢千年を超えることとなる清盛楠は、すでに老木で内部がくさり、二本も木のようにみえるが、一株の木である。高さは約10メートル、胸高直径3メートルほどあるそうだ。

IMG_8822-s-262be

第1鳥居を越えて進んで行きます。

鳥居には、榊(さかき)が。榊は冬にも緑の葉をつけている常緑樹で、神社でのお祓いや家庭の神棚によくつかわれています。その生命力の強さから「栄える木」、それが「榊」と呼ばれるようになったとも言われますが、もともとは特定の木を指した名称ではなくて、神社に関わる常緑樹全般を「榊」と呼んでいたようです。現在一般的に花屋さんなどで求めることができる榊は、ツバキ科サカキ属の常緑小高木で関東以南の比較的温暖な地域で生育するものです。なので、この種の榊が育たない地域では杉(すぎ)、樫(かし)、檜(ひのき)やサワラなどが使われたりもします。お祓いの際に左右に降って清める大麻(おおぬさ)と呼ばれるものにも榊が使われたりもしますし、神前に捧げる玉串にも使われます。

伊勢神宮では、鳥居や玉垣などにも沢山の榊が使われています。また、神楽殿の中に大きな榊が左右一対で立てられてもいます。伊勢神宮では、季節にもよりますがおよそ10日に一回取り替えられるそうで、その時は全体で100本の榊が替えられるそうです。年間で考えると、大小とりまぜ総計20、000本使われるそうで、これらの榊は、伊勢神宮が管理する山に自生しているものと、専用の畑に植えられているものが使われているそうです。

IMG_8819-s-905d6

第2鳥居を越えていきます。こちらの鳥居にも当然に「榊」がついてますね。ところで、なぜ外宮から参拝するのか?とありますが、神宮参拝は、まず外宮から、というのが古くからの習わしだそうで、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が豊受大御神を伊勢の地に迎えられたとき 「まず豊受大御神のお祭りをし、そののちに自分の宮の祭りをするように」と言われたことから始っているそうです。 現在、重要なお祭りは外宮から先に行っています。 これにならい、私たちの参拝も外宮を先に、そののち内宮に進むのがよいとされているそうです。

IMG_8793-s-5c36c

やっと、「正宮(しょうぐう)」に到着。衣食住の守護神、「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」が4重の垣根に囲まれた最奥に鎮座する御正殿が建つ。

ところで、平成25年の今年は伊勢神宮の「式年遷宮」の年にあたります。20年に一度の日本で最大最高の祭典と言われる。今回で62回目の歴史があり、20年に一度、本殿である御正殿をはじめ、諸殿舎を全て新しく建て替え、大御神が神殿へ遷(うつ)る。

IMG_8803-s-9054f

この式年遷宮の年だから、このように、旧宮と新宮を同時に眺める事が出来る、という醍醐味ですね。

ところで、式年遷宮は62回目、20年に一度なので、単純計算で1,200年以上の歴史だ。承暦(じょうりゃく)2年(西暦1078年)ごろに書かれたとされる、「太神宮諸雑事記(だいじんぐうしょぞうじき)」には朱鳥(しゅちょう)3年(西暦688年)のこととして、口頭の宣旨が記録されているそうだ。

「二所太神宮之遷宮の事は廿(にじゅう)年に一度、まさに遷御(せんぎょ)せしめる奉るべし。宜しく長列と為すべし」

朱鳥3年は持統天皇2年であり、「内宮、外宮の遷宮は20年に1度行い、この制度を悠久の慣例とせよ」と命じられたそうだ。持統天皇は天武天皇の皇后であり、夫帝の崩御後に皇位を継承した。通説によれば、持統天皇は天武天皇の意志を継がれて、遷宮の制度をさだめ実施したとされる。

IMG_8804-s-8802b

天武天皇は名実ともに古代国家の礎を築いた実力者であり、その意思が現在まで、続いているということだ。持統4年(西暦690年)、第1回の内宮の遷宮が、2年後に外宮の遷宮が執り行われたそうで、ここから歴史が始まったとされる。